科学の最近の進歩-2 スチュアート・カウフマン「自己組織化と進化の論理」

2月 10th, 2015

スチュアート・カウフマン(1939)

最近の科学の進歩-1でイリャ・ブリゴジンの「確実性の終焉」を紹介したが、不完全燃焼だったので、それに関連した本を読んでいる。同じブリゴジンの「存在から発展へ」、太田隆夫の「非平衡の物理学」、スチュアート・カウフマンの「自己組織化と進化の論理」である。今回は、「自己組織化と進化の論理」について述べる。

「自己組織化と進化の論理」は生理学者で医者のカウフマンの著作。ダーウィンのランダムな突然変異と自然淘汰による選別と言う進化論に真っ向から挑戦する内容。そこには非平衡の物理学も登場して彼の考え方を支援する。

まずは、ダーウィンの考え方だと生命の誕生に地球誕生から40億年では時間が短すぎる。まして、人間が登場することなど余程の偶然が重ならないとできない。そこには見えざる手による自己組織化という考え方が必須であると言う。

ダーウィン主義の継承者である生物学者のほとんどが「個体発生の秩序は、進化によって一片一片つなぎ合わせて作られた手の込んだ機械がこつこつと働いて生み出したものだ」と考えているが、カウフマンは「個体発生で見られる美しい秩序のほとんどは、驚くべき自己組織化の自然な表現として、自発的に生ずるものである」とする。そして、「こうした自己組織化は、非常に複雑で一定状態を維持するような調節的なネットワークにおいてよくみられるものである」と言う。さらに「生命は、カオスと秩序の間で平衡を保たれた状況に向かって進化する。つまり、生命はカオスの縁に存在する」とする。水には、固体の水、液体の水、水蒸気と言う3種類の相があるように、複雑適応系にも、例えば接合子から成体への成長をコントロールするゲノムのネットワークは、凍結した秩序状態、気体的なカオス状態、秩序とカオスの間のある種の液体的な状態の、主に三つの状況において存在できる。そして、「ゲノムのシステムは、カオスへの相転移する直前の秩序状態にある」と言う考え方は魅力的だと言う。カオスの縁の近辺にあるネットワークが複雑な諸活動を最も調和的に働かせることが出来るし、また、進化する能力を最も兼ね備えているのである。

生物学における非常に大きな謎は、生命が生まれてきたことであり、我々が目にする秩序が生じてきたことである。我々は圧倒的倍率を勝ち抜くことによって生じた存在ではない。宇宙の中にしかるべき居場所を持つ存在であり、生じるべくして生じた存在である。

生命が生まれたのは、自己触媒作用を営む物質代謝を形成するために、分子が自発的に集合した時である。

複雑な系がカオスの縁、あるいはカオスの縁の近傍の秩序状態に存在する理由は、進化が系をそこに連れていったからである。

また、ウイルスと抗体のように互いに進化し合う共進化は進化にとって重要であると主張している。

さらに、綿密に色々な角度から自己組織化について検証している。例えば、ボタンを並べておいて、ランダムに拾い上げ、それを糸で結ぶ。その動作を繰り返すと、糸の数がボタンの数の半分のところで相転移が起こり、巨大な数のボタンが糸で結ばれて釣りあげられる。つまり、生命の誕生もそのような相転移が起こったからであり、それは偶然ではなく起こるべくして起こったのである。そして、自己触媒作用こそが細胞を創り出した基本なのである。

こうした考え方は、将来ニュートン力学や量子力学のような理論化がされると期待されるが、まだそれは成し遂げられていないが、必ずや将来成し遂げられ、その暁には、全体が見渡せ、人間の宇宙における立ち位置が分かってくると期待していると結んでいる。まさに非平衡の物理学の目指すところと一致しており、壮大な世界観が開けてくるような気がした。

科学の最近の進歩-1確実性の終焉 時間と量子論、二つのパラドックス解決 

1月 20th, 2015

I.プリゴジン(19172003)

このところ科学と芸術、科学と宗教と題して取り組んできた課題の集大成になるかもしれないと読んでみた。ニュートン力学を主体とする古典力学と量子力学が時間を考慮に入れない平衡状態を扱うものであったのに対し、自然とその申し子である人間は非平衡状態にあり、その状態を扱うことで現実を理解できるとの信念が出発点にある。そして、キーになるのは時間の矢なのである。そして、ポイントは確率論であり、統計集団なのである。確かに身の周りを眺めれば古典力学は理想状態の概念であることは明らかなことは分かっていた。量子力学もアインシュタインの相対性理論も時間の矢つまり一方的な時間の流れは取り入れられていない。プリゴジンがそこに疑問を持ったのは1945年頃、その後、非平衡の科学は発展を遂げていった。勿論、以前にも非平衡の物理学は存在した。最も典型的なのが熱力学第二法則である。エントロピーは増大する、これは宇宙に生じる不可逆過程に基づいている。しかし、ニュートン力学と量子力学の成功は平衡の世界を植え付け、非平衡の世界こそ現実なのにその状態を追求しようとする雰囲気はほとんどなかったのである。

古典力学の枠組みの中で不安定性の果たす役割は何だろうか。ここは完璧に理解できなかった。但し、古典力学で用いられてきた軌道記述は熱力学とは両立せず、平衡状態においても非平衡状態においても統計的アプローチを必要とする。量子力学の波動関数も微粒子の世界を描くと言う点で古典力学とは異なるが、やはり同じ状況にある。つまり前者は決定論的法則であり、時間は未来も過去も等価なのである。しかし、現実を見た時、過去と未来は同じであろうか。明らかに違うと言わざるを得ない。

138億年前にこの宇宙はビッグバンにより誕生した。これまでの物理学は時間もここから始まったとする。しかし、その前に時間は存在しなかったのであろうか。プリコジンは、時間は永遠の昔からあり、永遠に続くとしている。これこそ現実である。そして、発展は平衡状態とは相反する。ダーゥインは19世紀に生物の進化論を唱えた。これも古典物理学に反する。そして、20世紀後半、非平衡過程の物理学は発展し、新しい科学が誕生した。自己組織化や散逸構造と言った新しい概念が導入された。非平衡過程の物理学は、一方的な時間(時間の矢)がもたらす効果を記述し、不可逆性に対して新しい意味を付与した。プリコジンは時間の矢を持たない平衡状態の物質は盲目であり、時間の矢と共に物質は開眼すると言っている。

本書は、古典力学と量子力学を改定して、非平衡過程の物理学との整合性を図っている。ポイントは確率論であり、統計的集団であり、さらにポアンカレの共鳴理論が重要であることを主張している。しかし、この本だけでは到底そこまで理解することは困難なので、ここではこの記述だけにして、兎も角今後の物理学が非平衡状態を取り扱い、時間を考慮に入れ、現実世界を真に理解できるものとするべく発展していく状況にあることを述べておくにとどめる。従って、最初に目指した目標には届かないので、それは今後の課題としたい。

新年のご挨拶 2015年1月1日 

1月 1st, 2015

明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、9月末に第八期を終え、101日から第九期に突入いたしました。お陰様で、順調に推移しておりますが、あっという間の8年間であった思いがいたします。事業はフッ素系表面改質剤を中心とした製造販売と情報提供及びコンサルティングの二本の柱で進めております。これを私どもは文武両道と称しており、いずれも充実した運びとなっております。

文とは所謂企業文化といった面を持ち、フッ素に関する情報を主に海外文献、特許、新聞情報から集積し、冊子に纏めている月刊の情報誌とダイキン工業様のホームページに毎月投稿しているこれまた月間の「最新フッ素関連情報」およびコンサルティングから成っております。情報誌は約10社にご提供し、お役に立っているとの声を聞いております。「最新フッ素関連情報」は当ホームページにも掲載しておりますが、情報によりますと500人ほどの読者がいるとのことです。そして、今後はグローバルに展開する予定とのことでまずは韓国語に翻訳され韓国で展開しているとのことです。

武の方は、製造販売を指しており、企業の収益を支える、根幹をなす事業です。原料を購入し、弊社独自の合成・ブレンド技術により製品製造を行い販売することがメインです。その他に数社と契約を結び、OEM販売を行っています。開発は社長の富永と毎日のように議論しながら進めており、お互いの得意な面がぶつかり合い、投合して製品に繋がっていっていると思っています。両者とも研究所出身、まさに武士の商法的なところもありますが、経理担当の岡崎がしっかりとフォローしており、営業担当の顧問田村も頑張っており、順調に進んでいると自負致しております。

今年は一昨年来手がけてきた二つの新製品が収益に貢献する見通しが立ってきました。そういう意味で飛躍の年になる可能性を秘めています。一同その実現に向けて一層の努力を続けていく覚悟ですので、益々のご支援よろしくお願い申し上げます。

平成27年元旦

代表取締役会長 松尾 仁

散歩

12月 16th, 2014

日課の散歩は私にとって欠かせない。それは我が家愛犬の散歩は不可欠だからである。朝は5時半に起きて30分程度、夜は帰宅後3040分程度、自宅の周辺を散歩する。犬は30kg程度あり大型犬に分類され力が強くうっかりするとこちらが引っ張られてしまう。普段は大人しいので問題はないが、もともと猟犬の血が混じっている為か後ろから自転車や小型バイクがと売り抜けようとすると襲いかねない勢いで向かっていく、これを抑えるのが一苦労である。一般に小型犬は雨の日や物凄く暑い時など行かない家庭はあるようだが、我が愛犬は台風の豪雨の真っただ中や、豪雪の日でも同じくらいの距離や時間をかけて散歩する。また毎日飯田橋の事務所でも、昼食後に必ず散歩に行くようにしている、飯田橋、事務所周辺ですので神楽坂やその裏路地、理科大周辺。そして月に一度程度歩いて40分くらいのところにある病院にも、これは夏の暑い時や極寒の時はめげそうになるが頑張る。散歩の楽しみは何といっても散歩後のさっぱりとした軽快感がいいのであるし、健康を保つための策と考えてはいるが、同じ毎日の景色でも季節や散歩の時間で同じ景色が全く違った世界に見える時があるそれが面白いのである。

今日は今年一年で散歩していてこんな世界があったのだと思わず撮ったスマホの写真で紹介してみたい。

はじめは近所の藪の中で見つけたカタクリである。カタクリは桜が終わったころに花が咲き始めるが目立たない花ではあるので気を付けないと見逃してしまう。ここでは小さく群生しているので誰かが植えたのかもしれない。木立の中で可憐な花を咲かせるので好きな花の一つである。写真は朝早くの時であるのでまだ咲ききっておらず、花弁がまだまっすぐである。日に当たると花弁はそっくり返る面白い花である。

我が家と病院の途中には中古トラックを販売している店舗がある。ある日病院に向かっていたら昔懐かしきオート三輪トラックが置いてあった。近づいてみると昭和45年の看板が掛けてあった。自分が子供のころは、どこでも見ることが出来たが今では全く見なくなってしまった。3列に並ぶ車輪はでこぼこ道を走るのは大変だろうなと思う。

花といえば何といっても桜であろう飯田橋の近辺は靖国神社、外堀通り、赤城神社、北の丸公園、小さいところでは  数えきれないほどである。その中でも水に映える桜は誠にみごとである。

この秋大津に行く機会があり行ってきた。丁度紅葉の真っ盛り紅色に変わった楓の見事さにはしばらく時間を忘れて見入ってしまったのである。

最後は旧古川邸何ともメルヘンチックで素晴らしい。ここでも時間を忘れて館とバラ庭園を楽しんだ。

日本は南北の距離が約3000kmあるそうだが、今年1年の歩行数を距離に換算するとこの距離程度を歩いたようである。これはスマホのアプリで毎日積算してくれるのでそれを参考にした。この数値がどのレベルであるかわからないが1年間歩けば日本を南北に縦断できることだけはわかった。それにしても伊能忠敬は凄い日本国中を50過ぎから歩き始め20年間で日本地図を作ってしまったのであるから。私ももう少し頑張ろう、健康のためにも世界一周は何年くらいかかるかな。

富永 安里記

科学と宗教-2 南方マンダラとユング曼荼羅

8月 1st, 2014

このシリーズ2回目は南方熊楠とユングのマンダラ感を取り上げてみた。

曼荼羅は仏教(特に密教)において聖域、仏の悟りの境地、世界観などを仏像、シンボル、文字、神々などを用いて視覚的・象徴的に表したもの。古代インドが起源、その後中央アジア中国朝鮮半島日本へと伝わった。私は高野山金剛峯寺で大きな両界曼荼羅図(胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅)を見た時、とてつもない大きな宇宙を見た感があり、その印象が最近の宇宙論と重なるのである。

「南方マンダラ」。南方熊楠が達した世界がまさに今私が追求している科学と宗教の世界であるらしい。この本の題からそう読みとって読んでみた。実に示唆的な本であった。熊楠は「事」として生まれる世界の本質をとらえる方法が、真言密教のマンダラ思想の中に潜んでいることを、直観的に理解していた。西欧で発達しつつある、現代の学問の限界を食い破って行く思想が、仏教の哲理の中に眠っているらしいと言うことを彼は知っていた。熊楠は「科学と仏教は対立しあうものではなく、科学はマンダラ思想のような東洋の哲理と結合されることによって、かえって自分を完成させることが出来る筈なのだ」と言っている。この本は、事の世界は夢の研究、比較宗教論と仏教起源論、反進化論および変化の論などについて彼がロンドンから仏教学者で高野山学林長、仁和寺門跡であった土宣法竜師に出した所見が取り上げられている。仏教が他の宗教に抜きんでて深く壮大なこと、仏教の起源は釈迦でなく、大日如来であること、釈迦は仏教を発展させた一人であり、その中でも最も優れた存在であること、熊楠の時代は水素が全ての物質の根源であり、大日如来は水素であると言っている。小峰彌彦の「曼荼羅の見方」の中でも「密教では釈尊の存在を根底に据え、新たな仏陀観を持ちました。即ち、仏陀を全宇宙の存在を司るものとし、これを人格的に捉えて大日如来としました。そして、歴史上の釈尊を、大日如来の変化身として位置付けたのです。そして、胎蔵曼陀羅では釈迦院として東方に位置させ、釈迦如来を悟りの具体的な教化・救済活動の実践者として示したのです。」としている。

熊楠による学問の方法論「南方曼荼羅」を、図にあらわしたのが、直線と曲線から成り立つ下図である。これは熊楠が土宜法竜師に宛てた1903718日付の書簡に書かれている。彼は、「核の周りを動く電子の軌跡のような線と、そこにクロスする直線、すべての現象が1カ所に集まることはないが、いくつかの自然原理が必然性と偶然性の両面からクロスしあって、多くの物事を一度に知ることのできる点「萃(すい)点」が存在すると考えた。

高野山大学教授の奥山直司は第8回南方熊楠ゼミナール研究発表で、熊楠と法竜との書簡のやり取りを取り上げ、「我々は大日如来の体内を輪廻する原子のような存在であって、過去、現在、未来にわたる大日如来の形相事相を完具している。仏性(熊楠は霊魂とする)もまた然りであって、そこに我々が成仏する希望がある」との見解を示している。

次にユングのマンダラを取り上げる。「個性化とマンダラ」。この本は昔ユングに夢中になった時、最も印象に残った本である。いま読み返してみて、彼の原点であるキリスト教への信仰の篤さを感じるが、彼独特のマンダラの世界を描き出している点大いなる共感を覚えた。勿論、彼の言うマンダラは、自分の心の投影を図形化したものであり、上記の曼荼羅とは異なっている。彼は無意識の世界を徹底的に追及し、人間には共通の無意識の世界が存在し、意識下の世界としばしば衝突し、所謂精神病は意識が無意識に敗れてしまった結果だとしている。無意識の世界は人間の元型であり、特に集合的無意識は「遠い過去に属する未知の心の生を、かりそめの意識の中へもたらす。それは我々が知らない祖先の精神であり、祖先の考え方や感じ方、彼らが生や世界や神々や人間を経験した仕方である。この太古的な層があるという事実はおそらく、「前生」からの生まれ変わりや記憶が信じられていることの基礎である。」として、人類共通の深い層の中に生きており、機能しているとしている。彼は世界中の人々にマンダラを描かせたところ、共通したパターンが得られ、それが意識と無意識の葛藤から生まれ出たものとの確信を得た。東洋の曼荼羅との共通点は円と四角と核となる中心の図形が基礎となっていることである。

ユングのマンダラが自己の小宇宙、密教の曼荼羅は仏の世界、大宇宙を表したものである。仏教の目的は人間個々人が悟りを開いて仏になることであることを考えると自己の小宇宙が、大宇宙に変身していくと言うプロセスが浮かび上がってくる。マンダラと曼荼羅が大いなる関係で結ばれたのではないかと思っている。

科学と宗教-1 宇宙論と神および物理学と神

6月 3rd, 2014

「科学と芸術」を書いていて、どうしても「科学と宗教」と言うテーマは避けて通れない事を認識し、このシリーズを書くことにした。

まずは池内了氏(1944)の二つの著作から考察した。即ち、「宇宙と神」「物理学と神」である。その二作品を紹介しよう

「宇宙論と神」。最初に期待したのは、現在到達している宇宙論に対する神仏つまり宗教的対応の説明だったが、宇宙論と宗教の歴史が中心であったのでかなり失望して読んだ。ギリシャ時代、アレクサンドリア時代、中世、ルネサンス、宗教改革、そして近代と多少陳腐なというか聞き飽きたと言うかそんな内容の歴史的記述が続いた。但し、神が地球に存在することから始まり、宇宙に存在し、そして、居場所が無くなった経緯が科学の進歩と共に語られていく考えは面白かった。また、聞き飽きた歴史観もコペルニクスの登場から俄然興味深くなった。ケプラー、ニュートン、ガリレオ、そして、アインシュタインまでもが神の存在を信じ、それに基づいた理論づけを行ったことは興味深い。特にアインシュタインが1916年に発表した一般相対性理論によれば、宇宙は収縮するか膨張するかの運動をしなければならないが、静かな宇宙を統括している平和的な神を信じた故に、一般相対性理論に人為的に宇宙項を付け加えたのである。後で彼はこのことを後悔していて、今では天体望遠鏡の高性能化により宇宙は膨張を続けていると言うこと、宇宙の誕生は130億年前であったことなどが証明されている。それでは誕生以前はどうだったのか。これは以前にも南部陽一郎さんらのノーベル物理学賞について書いた時述べたが、真空状態であり、クオークしか存在せず、そのわずかな対称性のずれが、ビッグバンに結びついたとのことである。こうして神は完全にその存在を失ったとされたが、池内氏はそうではなく、宇宙空間に展開する多数の次元の中に神は隠れていて、人類がそこへ到達するのを傍観しているかもしれないと結論付けている。そして、「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる」という梁塵秘抄の1節を最初と最後に掲げている点も興味を引いた。

「物理学と神」。これは「宇宙論と神」よりも以前に書かれた著であるが、主に近代以降の時代背景を持つ。ラプラス、マクスウェルなどが登場し、さらに量子論がより詳しく述べられている。そして、この宇宙を認識できるのは人間のみであるという人間原理の宇宙論を展開している。そして、矢張り神は宇宙の細部に宿りたもうとしている。そして、今でも我々はお釈迦様の掌の上でうろうろしているのではないか。そして、色即是空、空即是空こそ真実を突いていると述べている点に大いに共感した。

この二作を読んで、人間という存在が科学を発展させ、この宇宙を認識するに至ったことを改めて感じた。そして、科学の限界の先には常に神いや仏と私は言いたいが、その存在があることをしみじみと感じるのである。宇宙とはあの曼荼羅の世界であり、般若心経の深い意味なのかもしれない。これからも科学は測定手段の進歩や宇宙への探査の進歩と共に宇宙の神秘を解明していくであろう。そして、それが解明されればされるほど仏の世界が真実となってくるような気がしてならない。

科学と芸術-5 音楽と科学

3月 9th, 2014

昨年から科学と芸術と言うテーマで書き続けてきたが、今回は音楽を取り上げ、それに関する本を3冊読んで、音楽における科学性について考えてみた。

まずは、西原稔と安生健の「アインシュタインとヴァイオリン 音楽の中の科学」これは新聞広告で見つけた本。しかし、これほど題名から期待したことと異なる内容を突き付けられた本は未だ嘗てない。この題名からは当然のことながらアインシュタインがヴァイオリンとどう向き合い、その中で音楽と科学の接点を彼がどのように理解したかが述べられると思った。
確かに最初はアインシュタインの相対性理論などの発見の歴史と生涯が描かれ、更に彼がヴァイオリン奏者としての活躍ぶり、音楽はバッハ、モーツアルト、シューベルトを好んで弾いたことなどが述べられていた。しかし、それはこの本の序文を占めるのみで、本文は、第一章「音と数の秘密」、第二章「天体と音楽」、第三章「平均律と純正律」と題する音楽理論に関与した科学者を中心のお話であった。最初は裏切られた気持で読んでいたが、次第にこれぞ科学と芸術のテーマに相応しい内容だと思い、さらに内容を深めようとこの本に類似した「音楽と数学の交差」、「音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか..」を読んでみた。

「アインシュタインとヴァイオリン 音楽の中の科学」の本文の第一章。キリスト教における聖数と音楽との関係や黄金分割やプラチナ分割と音楽の関係が述べられていたが、かなりこじつけ的な要素があり、まだ裏切られた気持を引き摺っていたこともありピンとこなかった。その章の最後にピュタゴラスが取り上げられていた。彼は勿論あの「三平方の定理」で有名なギリシャ時代の数学者。その彼は音程理論の創始者であり、近代に至るまで多大の影響を及ぼしていた。彼は一本の弦と駒の位置から振動数を変えて完全調和のオクターブに次いで調和度の高い完全五度が弦の長さで比較すると3分の2に比率であることを発見した。オクターブは1:1/2であるから1:1/2=(1-2/3):(2/3-1/2)と言う不思議な数式が導き出せる。ここに数学との接点があると言うわけである。音の振動数は弦の長さの逆数。あの幾何学の大家ユークリッドがこの完全五度音程比を基準として次々と五度ずつ音程を上げていったがオクターブとは一致できなかった。そのわずかな差が計算され、音程比で531441/524288.これがピュタゴラスコンマと呼ばれ、後の平均律や12音階に繋がっていく。第二章に登場したのがケプラー。「惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円を描く」の法則を生み出したあのケプラーである。彼も音楽理論の大家であった。天体と音楽の調和はピュタゴラスも認識しており、プラトンやプトレマイオスなどもその考え方を踏襲し、ケプラーへと引き継がれていく。彼は惑星の軌道を天文学と音楽理論によって解明しようとした。各惑星が、太陽から見て一定期間に移動する角度(角速度)の比をとり、それをその星の音程とした。太陽の周りを回る星々は、それぞれ自分の音程を持ち、宇宙の中で素晴らしいハーモニーを奏でているとした。そのことがあのホルストの名曲「惑星」を生み出したと言っても過言でない。第三章では、ヘルムホルツが登場する。あのエネルギー保存則を打ち立てた物理学者だ。彼の時代には既にバッハが平均律クラヴィア曲集を出しているし、ラモーもピュタゴラスコンマの解決に一役買っていた。そんな中で、彼は振動数比からは純粋な和音は生まれないとし、オクターブを32分割する調律法「ヘルムホルツの平均律」を考案し、それに基づいて純正調オルガンと言う鍵盤楽器を発明した。この平均律や12音階によって均一化されたため転調による音楽の不思議な感覚の違いが不明確化され、絶対音感と言う弊害を生み出した。マックス・ウエーバーはこのことを近代化による当然の帰結としたが、あの微妙な音楽のニュアンスは消えたと言っていい。

「音楽と数学の交差」。数学者の桜井進と作曲編曲家の坂口博樹との共著。これは、表題通りの内容で、上記の内容をさらに肉付けし、保管するものである。人類誕生から歌が生まれ、数を認識した歴史が語られ、音楽と数学の結びつきの必然性につなげていく点は説得力があった。そして、宇宙と音楽についても、小林・益川理論の対称性の自発的な破れが宇宙の誕生につながり、音楽においても、対称性を根源に持ちつつも、その破れにより豊かな多面性が展開されるとして、共通のものが存在するとしている。そして、アインシュタインが宇宙の根本原理がきわめて単純で美しいものであるとすれば、そのハーモニーを音楽で聴こうとする人がいてもおかしくない。だからこそ、アインシュタインはモーツアルトを必要とし、「私にとって、死とは、モーツアルトが聴けなくなることです」と言わしめたと言う。次いで、音楽と数学の中の「無限」について述べている。
数学では、ニュートン、ライプニッツからオイラーを経て、ガウス、ディリクレ、リーマン、ヴェイエルシュトラスにより大いに発展し、カントール、デデキントの集合論に至るのである。カントールの無限論は0+0+0+・・・・=1で描かれる確定的無限であり、それまでの不確定的無限とは全く異なるものである。そして、音楽では、ベートーヴェンやシューベルトが宇宙と音楽の調和を謳い、人間の持っている無限感を内包しているが、その後ロマン派においてその無限感は廃れ、ようやくドビュッシーから無限感が蘇り、シェーンベルグ、ベルクの12音階を経て、ウエーベルンによりカントールの確定的無限を持つ音楽を生み出したとしている。さらに、ストックハウゼンやピエール・ブーレーズらの先導したトータル・セリーに受け継がれ、音のあらゆる属性が数列的に構成されたとのことであった。ゲーデルの「不完全性定理」から「数学は人間の創造ではなく、数学的対象と事実は人年の存在に関係なくその外にある。だから人間にとって数学の謎は永遠に残り、人間がある限り数学の探求はなくならない。」が導き出される。そして、「芸術は、人間の生きることの反映であり、決して理論では割り切れない矛盾だらけのもの。だからこそ、人間のある限り永遠になくならない。」と芸術と数学の共通点を明確にしている。最後は著者二人の対談。書き記されてきた内容を対談で深めていく。そして、将来について、量子コンピュータが世界を劇的に変え、科学も音楽もランダムの時代に入ると言う。大いに啓発された。

「音律と音階の科学―ドレミ…はどのようにして生まれたか..」。上記2冊の本で議論された音律について、特にピュタゴラス音律、純正律、平均律、12音階が更に詳しく解説されていて、頭の整理がかなり進んだ。そして、音律と転調の関係も理解が進んだ。しかし、あのバッハの「平均律クラビア曲集」の平均律は、ドビッシー以後の完全なものとは異なり、曲名は変えるべきとの意見はどうでもよく、さらに後半は音楽の理論的な記述が長々と続き、敢えてここに紹介する必要性を感じなかったことをお断りしておく。

 音楽と科学、特に数学との関係が只ならぬものであることを認識できた。そして、これからもその両者に大いなる関心を強め、私なりの考え方を打ち立てたいと思っている。

科学と芸術‐4

2月 5th, 2014

芸術の中の科学性

科学の中の芸術性について前回述べたが、今ふと思うとそれはロマンと言う言葉がぴったりするように思える。科学の中のロマン、偉大な発見発明は情熱の迸りの後に来る、これぞ科学の中のロマンであり、芸術性なのだと思う。今回は芸術の中の科学性と言ったテーマを取り上げてみた。

芸術は感性の世界だと言うが、そこには様式と言う秩序が存在する。これこそが芸術の科学性だと思う。様式とは、音楽で言えば、バロック時代のポリフォニーからその後のホモフォニー、ハイドンやモーツアルトによって完成させられたソナタ形式、ソナタ形式を超えていったロマン派、印象派、シェーンベルグの12音階形式などが浮かぶ。文学においては、漢詩や西洋詩における韻を踏むこと、俳句における五七五や和歌における五七五七七と言った言葉数の制限も様式である。また、西洋美術における、ゴシック、ルネサンス、バロック、ロココ、ロマン、写実、印象、象徴、モダンなどの形式あるいは主義、日本画における仏画、大和絵、水墨画、屏風絵なども様式と言える。一流の芸術に備わるものは何か。それはその時代時代により上述した形式を守ることにより醸し出される秩序ある気品ではないか。そして、それこそが芸術の崇高さなのだと思う。

この様式と言う秩序は客観性と言う言葉の中に含まれると思う。科学は結果において徹底した客観性が求められる。寸分の主観も許されない。勿論、過程において、発想において主観は重要であることは言うまでもない。しかし、結果は他人が検証し、誰もが納得できるものでなければならない。つまり徹底した客観性が必要である。

芸術にも科学ほど厳格ではないが客観性が求められる。時代を超えて残っていく芸術作品は客観性を備えている。その時代に一世を風靡しても、その時代が過ぎると色あせてやがて忘れ去られていく作品は星の数ほどあると言われる。残らなかった作品は客観性において足らなかったと言うことではないのか。いつの時代にも人々の心に充実感をもたらす芸術こそが客観性を勝ち得たものなのである。この場合の客観性は永遠性と言う方が適切な表現かもしれない。ここでの永遠とは普遍性と同じでいつまでも価値が衰えないと言うことである。勿論評価するのは人間である。いや評価できるのは人間だけである。古代の芸術に接し、現代の芸術と比較すると永遠性を勝ち得た作品は共通した価値を有している。深い感動と大きな充実感を与えてくれる。古代から現代にいるまで人の精神的レベルは変わっていないことを改めて認識する。

これからも一流の芸術作品に接し、偉大な科学の真髄に触れて、充実した時を過ごしていきたいと思っている。

平成26年新年のご挨拶

1月 6th, 2014

新年明けましておめでとうございます。皆様には本年がよいお年であることをお祈りし、変わらぬご厚誼をお願いいたします。

2011年3月11日に発生した東北大震災も早くも3年の年月が経とうとしておりますが、被災地はいまだに完全復旧がかなわず、長年住み慣れた土地を離れて新年を迎えなくてはならない方も大勢おられることと思います。未だ大変なご苦労をされている方々に、改めて心よりお見舞いを申し上げます。

一方、昨年は政局が大きく変化し、円安、株高も進行、アベノミクスと呼ばれる好景気に沸いた年でもありましたし、富士山が世界遺産登録、7年後の東京でのオリンピック開催が決定と喜ばしい話題も聞かれました。

その間、弊社は創業7年を経過し8年目に入りました。「フッ素製品の開発と製造販売」、そして「フッ素関連の情報収集、提供およびコンサルティング」という二本柱で進めてまいりました。弊社は2年前に事業拡大、飛躍の時期に入ったことを宣言し、「フッ素製品の開発と製造販売」では新規技術開発と応用分野拡大を、「フッ素関連の情報収集、提供およびコンサルティング」においては先端技術情報収集の精度を上げて対応し、その結果が昨年の事業成果に反映することができました。

今後はさらに激動する現代において社会でより必要とされる企業になるために変革と、飛躍のスピードを上げていくことを実行致します。

どうぞ皆様におかれましても今年が良い年でありますよう心よりお祈り申し上げます。

代表取締役 富永安里

科学と芸術-3

11月 12th, 2013

科学の中の芸術性
 科学と芸術の共通点は美であることを述べてきた。今回は科学の中の芸術性と題して、科学の中に香る芸術性について述べてみたい。
 セレンディピティーという言葉がある。「セレンディップ(セイロン、今のスリランカ)の3人の王子がはじめから意図してではなく、いつでも偶然に、しかしうまい具合に、色々なものを発見していく」という話から18世紀ごろからセレンディピティーという言葉を、自分自身の偶然によるいくつかの発見を表現するのに使っていて、重要な発見のかなりの部分がこのセレンディピティーに恵まれた人によるとされている。いくつか例を示そう。
まずは、アルキメデスの原理。王冠の体積を測る方法を風呂に入っている時溢れ出るお湯を見て思いつき、裸でシラキュールの町を「ユリイカ、ユリイカ(分かった、分かった)」と言いながら走ったという話は余りにも有名。
次いで、アイザック・ニュートンの万有引力の法則。リンゴの木から実が落ちるのを見て何故リンゴが垂直に落ちるのかを考察し、この法則を導き出したと言うのも多くの人が知っている話。
エドワード・ジェンナーが天然痘のワクチンを発明したのは、研究室で長く骨の折れる研究の結果ではなく、19歳の時、以前乳搾りだった人に、牛痘にかかった人は天然痘にかからないと教えられたことがヒントだったとのこと。
フリードリッヒ・ウェラーが有機合成の発端となる尿素を合成したのは、全く別の化合物を合成しようとしていて、目的物とは異なった化合物を得たことによる。つまり、シアン酸カリウムと硫酸アンモニウムからシアン酸アンモニウムを作ろうとして得た白色結晶が尿素だったと言うわけである。彼は学生の時、尿から尿素を取り出す実験をしていて、尿素が白色結晶であることを知っていたと言う偶然がこの発見に繋がったとされている。
ウイリアム・パーキンがトルイジンからキニーネを合成しようとたが、得られたのは紫色の化合物であった。彼はそれを捨ててしまう前に、これをフラスコから洗い出すために使った水やアルコールが紫色になっていることに気がつき、更に布を紫色に染めることを見いだし、世界初の合成染料の製造という結果につながった。
フリードリッヒ・ケクレのベンゼンの構造式の決定は、彼が夢で蛇が尻尾に噛みついているのを見て閃いたと言う話も余りにも有名である。
ジョゼフ・プリーストリーの酸素発見、ベルナール・クルトワのヨウ素発見、ロベルト・ウィルヘルム・ブンゼンとグスタフ・ロベルト・キルヒホフによるヘリウム、アルゴンなど希ガスの発見、など重要な元素の発見もこのセレンディピティの賜物である。
まだまだこういった話は枚挙にいとまがない。近代細菌学の開祖であるルイ・パストゥールは、「観察の場では、幸運は待ち受ける心にだけ味方するものだ」「偉大な発見の種はいつでも私たちの周りに漂っているが、それが根を下ろすのは構えた心に限られる」と述べている。ここに大いなる芸術性を感じるのは私だけではないと思う。
 今年のノーベル物理学賞は「ヒッグス粒子の発見」であった。真空状態から宇宙誕生したのは137億年前、そのカギを握るのがヒッグス粒子だと言う。ロサンゼルス・ピアース大学部類学科教授山田勝也氏の「真空のからくり、質量を生み出した空間の謎」を読んでみた。
「真空は決して空っぽの空間ではなく、複雑極まる物理系であり、この宇宙のすべては真空から生まれた」として、難解な物理学の理論をかなり分かりやすく書いている。真空は真空であって、それ以上の議論はないと考えられてきた真空が無言でざわめいているという事実が20世紀に入ってからわかってきた。アインシュタインの相対性原理と量子論から湯川秀樹の中間子理論に始まるクォークの世界、そして、南部陽一郎の「真空に起きた自発的対称性の破れ」にはじまる真空状態から宇宙誕生の解明につながっていく。真空中には質量を持たない仮想粒子が存在し(寿命が極端に短いため観測不可能)、それが蠢いていることがざわめきの原因。この仮想粒子が対称性の破れによってヒッグス場が発生する。仮想粒子がヒッグス場と相互作用する時に質量を持つヒッグス粒子ができる。そして、クォークもヒッグス場との相互作用により質量を持つようになり、それが爆発的に広がって宇宙が誕生したと言うわけである。実に複雑ではあるが、壮大なドラマを見ているようで、不思議な感動を覚えた。ここにも大いなる芸術性の香を感じた次第である。