「科学と芸術」を書いていて、どうしても「科学と宗教」と言うテーマは避けて通れない事を認識し、このシリーズを書くことにした。
まずは池内了氏(1944?)の二つの著作から考察した。即ち、「宇宙と神」「物理学と神」である。その二作品を紹介しよう
「宇宙論と神」。最初に期待したのは、現在到達している宇宙論に対する神仏つまり宗教的対応の説明だったが、宇宙論と宗教の歴史が中心であったのでかなり失望して読んだ。ギリシャ時代、アレクサンドリア時代、中世、ルネサンス、宗教改革、そして近代と多少陳腐なというか聞き飽きたと言うかそんな内容の歴史的記述が続いた。但し、神が地球に存在することから始まり、宇宙に存在し、そして、居場所が無くなった経緯が科学の進歩と共に語られていく考えは面白かった。また、聞き飽きた歴史観もコペルニクスの登場から俄然興味深くなった。ケプラー、ニュートン、ガリレオ、そして、アインシュタインまでもが神の存在を信じ、それに基づいた理論づけを行ったことは興味深い。特にアインシュタインが1916年に発表した一般相対性理論によれば、宇宙は収縮するか膨張するかの運動をしなければならないが、静かな宇宙を統括している平和的な神を信じた故に、一般相対性理論に人為的に宇宙項を付け加えたのである。後で彼はこのことを後悔していて、今では天体望遠鏡の高性能化により宇宙は膨張を続けていると言うこと、宇宙の誕生は130億年前であったことなどが証明されている。それでは誕生以前はどうだったのか。これは以前にも南部陽一郎さんらのノーベル物理学賞について書いた時述べたが、真空状態であり、クオークしか存在せず、そのわずかな対称性のずれが、ビッグバンに結びついたとのことである。こうして神は完全にその存在を失ったとされたが、池内氏はそうではなく、宇宙空間に展開する多数の次元の中に神は隠れていて、人類がそこへ到達するのを傍観しているかもしれないと結論付けている。そして、「ほとけは常にいませども うつつならぬぞあはれなる」という梁塵秘抄の1節を最初と最後に掲げている点も興味を引いた。
「物理学と神」。これは「宇宙論と神」よりも以前に書かれた著であるが、主に近代以降の時代背景を持つ。ラプラス、マクスウェルなどが登場し、さらに量子論がより詳しく述べられている。そして、この宇宙を認識できるのは人間のみであるという人間原理の宇宙論を展開している。そして、矢張り神は宇宙の細部に宿りたもうとしている。そして、今でも我々はお釈迦様の掌の上でうろうろしているのではないか。そして、色即是空、空即是空こそ真実を突いていると述べている点に大いに共感した。
この二作を読んで、人間という存在が科学を発展させ、この宇宙を認識するに至ったことを改めて感じた。そして、科学の限界の先には常に神いや仏と私は言いたいが、その存在があることをしみじみと感じるのである。宇宙とはあの曼荼羅の世界であり、般若心経の深い意味なのかもしれない。これからも科学は測定手段の進歩や宇宙への探査の進歩と共に宇宙の神秘を解明していくであろう。そして、それが解明されればされるほど仏の世界が真実となってくるような気がしてならない。