フッ素化学と芸術

私は現在、株式会社FT-Netという会社の経営に携わり、月曜日から金曜日まではフルタイムで働いている。FT-Netという会社はフッ素系のコーティング剤事業、フッ素関連情報誌の発行、コンサルティングなどを行っていて、いわばフッ素化学の仕事をしていると言っていい。一方、会社を離れると松尾文化研究所の運営にかかわっている。文学、音楽、美術といった芸術に親しみ、それに関する文章を書いてブログに掲載することが主な内容である。会社を離れるとは、往き帰りの電車や帰宅後の

家の中、土曜日、日曜日はこちらの仕事を主に行っている。期せずして、FT-Netと松尾文化研究所は2006年に始めたものである。幸いいずれもこの11年間、順調に発展してきたと考えている。ここではその経緯を含めてフッ素化学への思いと芸術

への思いを語ることができればと考えている。

私がフッ素化学に従事したのは旭硝子に入社してからである。フッ素ゴム、撥水撥油剤、防汚加工剤、医薬・農薬中間体などの開発に直接従事し、管理職になってからはフッ素樹脂、フッ素塗料、フルオロカーボンなどにもかかわった。入社当時はフッ素は期待の星で何をやっても新しいことのような気がした。しかし、10年、20年と経過するうちに環境問題などの影響もあるが、なかなか新製品を出せない状況で大いに苦労したことが思い出される。旭硝子定年後、韓国の会社にいたこともあるが、FT-Netを起こし、フッ素にどっぷりとつかる環境が得られ、フッ素への思いがますます強くなっている今日この頃である。特に情報誌を作成するために、毎月特許1000件、文献500件に目を通し、業界紙を隅から隅まで読んでフッ素関連記事を抽出し纏めていて、まさにフッ素漬けの毎日であり、フッ素の面白さ、奥深さを実感しているのである。フッ素の文献・特許を見ているとあの頃のような画期的な技術の発展は減っていることは間違いないが、それでも日々発展しているということをひしひしと感じる。この十年の歩みという観点で考えてみると、環境問題における新フルオロカーボンHFOの出現、半導体リソグラフィーにおけるArFおよびArF液浸技術に伴うフォトレジスト、フッ素系液晶材料の進展、リチウム二次電池や燃料電池におけるフッ素系電解質の進展、新規フッ素系医薬・農薬の開発と新フッ素化合成技術の開発、工業材料としてフッ素ポリマーのナノコンポジット技術の進展などなど枚挙にいとまがない。こうした技術は従事している研究者の熱意とたゆまない努力の賜物であることは言うまでもないが、それ以上にそこで働く勘だとか神仏のような偉大な存在によるお導きのようなものが多々あるのだと思う。常にそのことばかりが頭を離れないでいるとき、ふと目の前に新しいアイディアが現れ助けてくれた、そんな経験をされたことがある研究者は少なくないのではないかと思う。それが世紀の大発見でなくてもほんの小さなことで

その瞬間の喜びは大変なものなのである。私にはそういった喜びは化学でしかない

が、芸術も同じだと思っている。

文学にしろ、音楽にしろ、美術にしろ、一筋縄ではいかない努力の結果としての作品や演奏でなければ人の心を打たないと思う。勿論、努力だけではなく、芸術家が生来持っている才能やセンスがより重要かもしれない。とは言っても、これが働くのは努力に次ぐ努力に喘いで壁にぶち当たった時だといわれる。これも偉大な存在のお導きという表現で表されるのかもしれない。そこに科学と芸術の共通点がある。さらに出来上がった技術と作品あるいは演奏に共通するもの、それは美であると思う。美とは何か。それは人の心をとらえ、心に入り込み、充実感を与えてくれるものと私は思う。具体例を挙げてみよう。私は陶磁器が好きで静嘉堂文庫美術館、五島美術館や根津美術館などによく見に行く。深い緑と得も言われぬ形の青磁の壺、光を受けて神秘的な輝きを放つ曜変あるいは油滴天目茶碗、楚々とした色と形の井戸茶碗、厚みと微妙な歪みが魅力的な志野茶碗、柿右衛門の赤と深い青が無類の清潔感を醸し出す伊万里焼などなどいつまでも眺めていたい美しさが心にとてつもない充実感を与えてくれる。一流の音楽家の情熱と技術と音楽性がアウフヘーベンされた生演奏を聴いて涙が止まらず嗚咽を伴った感動を覚えるとき、心は充実感で満たされる。まさに至福の時なのである。さらにルノワールの「ブージヴァルのダンス」はボストン美術館で感動し、次の日もその絵の前に駆け付けたり、長野のシャガール美術館で、シャガールの夢の世界にたゆたったり、国立博物館で黒田清輝の「湖畔」に出合い釘付けになったり、小淵沢の平山郁夫美術館で、平山郁夫の描くシルクロードに浮かぶ月の美しさに目を見張ったことなどなど一流の画家の作品を鑑賞するとき、切り取った自

然美が目を通して心に染み入ってきて、とんでもない充実感を覚えるのである。

科学においてもニュートン、アインシュタイン、シュレディンガーなどの物理の法則はそれぞれ、F=ma、E=mc2、 と一つの式で表される。それはいずれもとてつもなく美しいと思う。また、ニュートンの古典力学からファラデー・マクスウエルの電磁場理論、アインシュタインの相対性理論、シュレディンガーやディラックの量子力学へと発展していった過程の美しさは実に感動的である。数学におけるオイラーの定理:eiπ + 1= 0やフィボナッチ数:Fn + 2 = Fn + Fn + 1 (n≧ 0)、フェルマーの最終定理:n?3 のとき、 x n +y n=z n を満たす自然数 x,y,z? は存在しない、などの美しさも物理学に勝るとも劣らない。何故にこんなに美しいのか、ただただ、自然の偉大さ、それを見出

した偉大なる科学者に畏敬の念を抱かざるを得ない。

そういった偉大な発見には程遠いが、自分自身の経験においてささやかな技術の進歩が目標を達成した時、その結果はやはり美しく、大いなる充実感を味わえたことも付け加えておきたい。科学と芸術にはこのように共通点が存在する。科学は私にと

ってはフッ素化学である。だからフッ素化学と芸術の共通点と言える。

最後にフッ素化学における偉大な発見を述べてみたい。1771年のカール・シェーレによる無水フッ酸の発見、1886年のアンリー・モアサンによるフッ素ガスの発見、1938年のロイ・プランケットによるPTFEの発見、1948年の撥水撥油性やPVDFの発見などがフッ素化学の隆盛を招いたことは言うまでもないが、その後、含フッ素生理活性物質や含フッ素液晶をはじめとして上記に述べたリチウム二次電池や燃料電池の電解質材料などなどが次々と開発され、エレクトロニクス、エネルギー、ライフサイエンス、工業材料などほとんどあらゆる分野でなくてはならない存在になっている現実を見るとそこには情熱と鋭い勘を持った研究者が存在し、更なる発展を期待して日々努力してきた姿が目に浮かんでくるのである。彼らは当然、目標をクリアした時に大いなる充実感とともにその成果にとてつもない美を見出しているのではないだろうか。それは偉大な芸術に接したときに感じた美と同質のものであったと感じている

のではないだろうか。

ここで最後にささやかではあるが私自身の経験を述べてみたい。旭硝子時代撥水撥油剤の開発を行っていたが、その時、Rf含有アクリレート共重合体のラテックスが製品であった。その性能はラテックスの美しさで判断できた。高性能のラテックスは光輝くばかりの水分散体であり、性能が低いものは光の輝きがなくすぐに判断できた。また、撥水性試験はいわゆるシャワーテストで行ったが、45度に傾けた処理布に水滴をシャワーのように降り注ぎ、その撥き具合で判断するのであるが、高性能のものは大きく美しく飛び跳ね、一滴も水滴を布上に残さなかった。一方、性能が低いものは水滴がまとわりつくように撥ねて幾筋もの水流が汚らしく布上を駆け巡っていた。ほんの一例であるが、他にもこういった経験はあり、優れた製品は美しいという印象を

何度も持ったことが思い出される。

今後どのくらい生きることができるのかわからない。しかし、生きている限り、フッ素化学の世界に浸り、芸術の世界に浸って美を求め、心の充実を味わいたいと思っている。