科学と芸術

この表題のことは、私が生涯追求してきたことである。夏目漱石の「草枕」に「越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛げて、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人という天職が出来て、ここに画家という使命が降る。あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、人の心を豊かにするが故に尊とい。」また、「三四郎」だったか、東京の路面電車を見て科学の力を認識した場面もあったように思う。彼は科学を認めながらもやはり芸術の方が尊いと思っていることは確かなようだ。また、ノーベル賞作家のオクタビオ・パスが「弓と竪琴」において、「詩は人類最高の叡智である。」と言って科学を軽視する記述に少々違和感を覚えたことを思い出す。アインシュタインはヴァイオリンの腕が相当のものであったことは有名な話である。このように一流の芸術家は科学に思いを馳せ、一流の科学者は芸術に思いを馳せる。  科学は論理の世界、芸術は感性の世界と言われる。しかし、科学がひとつの原理を発見する過程においては感性がかかわってくるし、芸術がひとつの作品を完成する過程においては論理が必要である。そして完成した原理や作品には「美」が滲み出る。この美が存在しない原理や作品は価値がないと言っても過言ではないと思う。但し、科学の場合、結果として美が滲み出てくるのであって、最初から美を求めてしまうととんでもないミスを犯すことになる。かなり昔の話だが、そういう科学者がいて、実験もしないのにこうなることが美しい結果になるとしてそれを学会に発表し、後に他者が実験したところそんな結果にならないとの結論に達し、その科学者は失脚してしまったことがあった。実験はあくまでも厳正である。その結果に基づいて原理が構築されていく。一流の実験者は実験結果を予測するが、それに捉われない。ただ現前に現れた結果を客観的に冷徹なまでに判断し、予測と異なった結果を寧ろ喜んで受け入れる。こうして、幾多の重要な発見がされたのである。  夏目漱石は、芸術は人の心を豊かにするから尊いと言った。科学は多種多彩な発見により物質的な豊かさを人類にもたらした。まだまだ貧しい人は多いけれどこれを救えるのは科学であると思う。物質的な豊さがあってこそ、芸術が生きてくるのではないか。人類にとって科学と芸術は叡智の両輪であり、どちらも無くてはならないと思う。  芸術と言っても文学、音楽、絵画だけではない。絵画に陶磁器や彫刻、書道などを含めた美術、映画、演劇や芸能と言われる分野もその中に入る。スポーツだって芸術的瞬間があり、一流選手のプレーは芸術的である。いずれもそこには美があるのである。美は科学と芸術における価値の源泉である。  科学は原理に留まらないことは既に述べた。科学の原理は製品と言う産物を生み出す。それは芸術における作品と双璧をなす。但し、原理が製品を生み出すと言う言い方は正確ではない。正確には、科学者は実験を行い、発見する。その発見が製品につながっていく。そして、その発見に隠された原理を見出していく。発見は非凡な科学者の観察力、洞察力に依存する。原理は広大な世界を形作り、その結果幾多の製品が生み出されていく。そして、人類の豊かさを創出していく。  勿論、科学の負の部分は問題視されている。原爆を頂点とする高性能高機能の兵器は人類に多大の被害を及ぼした。また、深刻な環境問題を引き起こしたのは科学である。人類が今後生き残れるのはこの負の部分を如何に制御できるかにかかっている。これを人類の英知で克服できれば、科学は計り知れない豊かさと便利さとを齎すことは間違いないと信じている。そして、何時の日か宇宙に飛び出し、他の惑星はもとより、他の太陽系に進出していく夢も科学の力が約束していると思う。  一方、芸術も伝統を守りつつ、新しい世界を次々と創出していくことであろう。人類はこれがあってこそ霊長の名に値する。多種多彩な芸術の世界が人々に精神的な豊かさを齎し、充実した生活を送らせてくれる。それゆえに尊いのである。  科学と芸術、人間の人間たる所以の叡智の二つの結晶。微力ながらこの二つの結晶に何時までもかかわっていきたいと願う今日この頃である。                            松尾 仁