節分

2011年2月3日15時、Fさんと抜け出して、近くの筑土八幡神社に行き、節分の催し物を見物した。当神社はその由来記には次のように書かれている。

「当神社は嵯峨天皇の時代(809年 – 823年)に、付近に住んでいた信仰心の厚かった老人の夢に現われた八幡神のお告げにより祀ったのが起源であるといわれている。その後、慈覚大師が東国へ来た際に祠を立て(850年前後)、伝教大師の作と言われた阿弥陀如来像をそこに安置したという。
その後、文明年間(1469年 – 1487年)に当地を支配していた上杉朝興によって社殿が建てられ、この地の鎮守とした。上杉朝興の屋敷付近にあったという説もある。元和2年(1616年)にそれまで江戸城田安門付近にあった田安明神が筑土八幡神社の隣に移転し、津久戸明神社となった。その後、1945年に第二次世界大戦による戦災で全焼。明神社の方は千代田区九段北に移転し、築土神社として現在に至る。八幡神社の方は現在でも当地に鎮座している。」

 会社の斜め前の坂道を登って行き、行きあたりを左に折れてすぐのところに神社がある。そこの御札を今年のものに代えて部屋の奥に飾ったのはつい一ヵ月前であった。境内には人が溢れていた。子供が多く、その話声が辺りにこだましていた。本殿に向かって右側の境内中央辺りに舞台があり、そこから豆がまかれるらしくその前が子供たちでびっしり埋め尽くされている。その周りを大人たちが取り囲み、その外側に我々もようやく陣を取れた。甘酒が振る舞われていて、一杯いただく。暖かい甘さが身体にしみわたっていった。豆まきの前に神主が出てきて、舞台の斜め前の大木に新しい注連縄を巻き、お祓いをする。そして、いよいよ豆まきが始まった。町の人が普段着のまま出てきて袋に入った豆と小さなミカンを投げる。子供たちが歓声を上げて受け取る。そのうち、大人も真剣に受け取り始める。我々は少し離れていたのでなかなか受け取れない。ようやくミカンをキャッチ、そして、Fさんが豆の張った袋をキャッチし、私に差し出した。固辞したが、どうしてもと言うので有難く頂戴した。その後、Fさんのためにと少し前へ出て真剣に取ろうとしたが、結局はそれ一つで終ってしまった。周りを見ると抱えきれないほど独りで取っている大人がいた。一つぐらいもらおうかと思ったが、苦笑いでその人を眺めるだけにとどめた。風邪気味だった私は、そのまま帰宅の途についた。その途中、神楽坂の毘沙門天を覗いたところ、こちらは本殿から、きちんと身なりを整えた人が3人ほど同じように豆の入った袋をまいていた。さらばとそこに近づいたまさにその途端、残念ながら終わってしまった。Fさんから頂いた豆は大事に家に持ち帰り、コンビニで買った豆と共に食べたが、そちらの方が美味しく感じたのは豆に心が通っていたためであろうか。              松尾記