神楽坂散歩 2011年3月

事務所が神楽坂に移って8カ月を経た。毎日昼食であちこち歩いているが、本格的な散歩はなかなかできなかった。3月初旬の土曜日、本格的とはいかないが神楽坂にある横町を意識して歩いてみた。ほとんどが既に歩いたところだが、確認する意味も含めての散歩である。

まずは、メインの早稲田通り、昼時は歩行者天国になっている。まずは腹ごしらえと入口付近の翁屋と言う蕎麦屋に入る。すでに7件ほど蕎麦屋に入っているが、ここは初めて。椅子席と畳席が左右に分かれていて、数人の客がいた。椅子席の奥に陣取る。「せいろはないの」と聞くと「もりそばですか」と来た。まあそれはそうなのだがと思いながら、壁に書かれたメニューを見て「ああ、天セイロがあるね。それでいい」と言って注文を終えた。直ぐにお茶とおからと冷ややっこが来た。こういうのは初めてだ。味は悪くない。しかし、その後なかなか天セイロが来なかった。お茶もお代わりをもらって時を過ごすとようやく海老と紫蘇の葉の天麩羅と白く盛り上がったまさに盛り蕎麦の組み合わせが登場した。天麩羅はカリッと揚がっていてまあまあだったが、盛り蕎麦は腰がなく蕎麦の香りも乏しく少々がっかりした。近い将来神楽坂の蕎麦屋ベスト5を紹介するつもりだが、ここは間違いなくその中に入らない。まあそれでも腹を満たしたので機嫌よく大通りに出る。改めてこの坂を登って見ると意外ときついことが分かった。

登り切った先に毘沙門天があるが、その先を左に折れるとゆるやかな地蔵坂のわらだな横丁がある。明るい日差しの中登った先に光照寺があった。戦国時代、この地域の領主であり、北条氏の家臣であった牛込氏の居城のあったところであり、天正十八年北条氏の滅亡とともに取り壊された。そして、正保二年(1645年)に光照寺が神田から移ってきて現代に至っている。このあたりにしては広い境内に鐘楼と本堂があった。冬の日が燦々と降り注いでいたが風が冷たく散りかけの白梅が鐘楼の脇に寒そうに咲いていた。墓の中を通って奥へ行くと諸国旅人供養塔があった。神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が旅籠屋で病死した旅人の菩提を弔うため、文政八年(1825年)に建立した供養塔である。当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものだそうである。

そこから引き返し、毘沙門天の手前の脇道大手門通りを入っていく。小栗横町を左に見ながら行くと若宮神社があった。コンパクトな近代的神社の感があったが、縁起を見ると鎌倉時代源頼朝によって建立された由緒ある神社とのこと。

またまた早稲田通りに舞い戻り、坂を下って反対側の神楽坂仲通りに入る。すぐ左に下に示す芸者新道と言う路地がある。新道と言うだけに真新しい感覚である。

その先に狭い路地があり、かくれんぼ横丁に通ずるいかにも神楽坂の横丁の様相を呈している路地のひとつである。

かくれんぼ横丁は本多横町に通じている。ここには昼食で通う店が多い。その入口の通りが軽子坂の通りで、軽子坂とは逆方向に少し行くと最も神楽坂らしい兵庫横丁に遭遇する。一度夜に来て幸本や本書き旅館として名高い「和可奈」で食事をしたいと思っている。

最後に本多横町に戻り、三年坂と言う我が事務所に通ずる坂を下りて、会社で一息ついた。