編笠山奮戦記 2009年11月7日

部長のPさんと八ヶ岳の南端の山、編笠山に登った。彼とは5月にFさん共々茅が岳に登り、その時は彼がその模様をこのブログで書いている。今回はFさんが所用のため、二人だけの登山となった。

当日は抜けるような雲ひとつない好天気であった。彼は社内では雨男で通っていたが、5月も晴れたし、今回は素晴らしい晴天で、すっかり晴れ男の名を頂戴するに至ったと思っている。前日、韮崎に泊まり、朝7時に出発、7時45分頃観音平に到着、7時50分に登山を開始した。新調した靴の履き心地もよく、11月にしては暖かい日差しの中、心は浮きたつようであった。但し、後で述べるがこの靴がとんでもない苦痛を与えることになるとはその時は夢にも思わなかった。なだらかな山道は、紅葉した広葉樹と緑の針葉樹の間からの木漏れ日が何とも言えぬ清々しさを与えてくれていた。傾斜は少しずつ急になり、いつも山登りの時に感じる、慣れるまでの足への負担が今日は殊更大きいように思えた。先導するPさんは私の歳の半分、若者らしく快調に飛ばし、時折、喘ぎながら登っていく私を静かに待っていてくれるシーンが何度もあった。最初のポイント雲海は、地図では1時間の道のりであったが、40分で到着。少し休んで、次なるポイント押手川に向かった。そのころから岩道がメインになり、Pさんがなるべく歩幅を短くできる道を選んでくれたが、少し慣れたにもかかわらず、喘ぎは収まらなかった。途中、写真にも示すような緑の若木が幹の途中で真っ二つに割れている光景をあちこちで見かけた。先日の台風の影響なのだろう、自然の脅威を感じた。また、大きな岩には苔とカラマツの葉が積もっていた。

押手川には地図通り1時間で到達した。川には水がなく、霜柱と氷がそこここに見られた。そして、最後の難関の頂上までが待っていた。ほとんど岩の道で段差が大きく、脚に乳酸が溜まり、立ち止まってしまうシーンが頻発した。Pさんは全くそんな素振りはなく、快調に登っていき、そして慈愛に満ちた目で待っていてくれた。そして、「もうすぐですよ」と何度も声を掛けてくれた。しかし、急な上り坂は行けども行けども尽きない、そんな思いが1時間続いた後、ようやく「頂上が見えました」との声で、心の底から「やったー」と叫んでいた。時は10時半、2時間40分の登山であった。

頂上は広く、背の低い常緑樹を配して、小さな岩が敷き詰められていた。すでに数人の人が来ており、また次々に人が登ってきて広い頂上も手狭にさえなった。まさに360度のパノラマ、北に八ヶ岳の権現岳、赤岳、横岳などが大きく聳え、南には南アルプス連峰が薄く青く、白い薄い雲の上に優美に並び、その少し西に中央アルプス連峰、さらにはその奥に御嶽山、西には北アルプス連峰を見張らすことができた。目を東に転ずると、富士山が高く聳え、その前に6月に登った茅が岳や以前に登った金峰山、瑞垣山、その奥に秩父連山が見渡せた。その優美で雄大なパノラマにしばし見とれ、暖かい日差しを浴びて早い昼食を取りながら、吸い込まれそうな青空の下、1時間ほどその雰囲気を楽しんだ。

11時半に下山開始、権現岳への途中にある青年小屋をまずは目指した。そして、苦難が始まった。登りでは何ともなかった靴が、両足の指を押し付け、かなりの痛みが走った。その痛みは止むどころか、ますます酷くなっていく。林を抜けると目の前に岩場と青年小屋が展望できたが、岩場がまた下り辛く、強い衝撃が加わって、その痛みに耐えることのみが全意識であるという状況に陥った。ようやく青年小屋にたどりつき、靴を脱ぐと爪が食い込み指を圧迫していた。しかし、どうしようもないので、下山を続けざるを得ない。Pさんは心配してくれたが、どうしようもない。青年小屋から押手川までの長かったこと、行けども行けども行きつかない思いをまたまた味わった。そして、押手川から雲海へ下り、雲海から観音平までの間に到々我慢できなくなり、靴を脱ぎ、厚い靴下のみで歩く羽目に陥った。途中追い越して行った人が、「どうしたんですか」と声をかけ、事情を話すと心配そうに下りて行った。それでも最後まで我ながらよく頑張ったと思う。Pさんには迷惑をかけたが、観音平に着いたのは午後2時半だったので、時間的にはそんなに遅れたわけではなかった。しかし、登山の厳しさと素晴らしさを同時に存分に味わうことができた。

その後、甲斐大泉駅近くの温泉に入り、ゆっくり湯につかうと今日の全てが素晴らしさに変わり、また登りたい気分が高揚してきた。その夜、韮崎でPさんと乾杯、来年は南アルプスに挑戦することを誓った。

松尾 仁